2026.7.6
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昨日は、私が所属するアマチュアオーケストラの夏の定期演奏会だった。演奏会のレセプション後、気のおけない先輩/後輩と目白のイタリアンで食事をして帰った。お酒が飲めない私だけど、目白のイタリアンに到着した頃、気分は最高潮。 「今日が終わらなければいいのに!」と、何度も思った。
そして翌日の朝である現在は、妙にスッキリしている。家事もサクサク進んで、世界が隅々までスコーンと広がっているような気持ちだ。その気分のままの覚書。
今回の演目は、メインがチャイコフスキーの交響曲4番。そして前プロがボロディンの「ダッタン人の踊り」、 中プロがチャイコフスキーの「白鳥の湖」だった。いつもはメイン1曲乗りなのだが、ダッタン人は高校時代、吹奏楽部の部長をしていた時のコンクールで選んだ曲で(中高はサックスを吹いていた)、久しぶりに演奏してみたいなと思って全部の曲に乗ることにした。
高校時代の吹奏楽コンクールは8月の半ばだったと思う。高校時代は夏休みの大半をかけて、コンクールの練習をしていた。音楽室の湿気やにおい、(ダッタン人で大活躍をする)オーボエの先輩や指揮をして下さった音楽の先生の顔、コンクールが行われていた京都会館などを久しぶりに思い出した。それにしても。サックスとビオラって、担当している音域や役割が似ているな~。
組曲なので、いくつかの曲を弾いた後に、「FINARE」という曲に辿り着く。この「FINARE」、当初は楽譜が読みづらいし、弾き疲れているのにガシガシ弾かなきゃいけないしで、「どういうこと!?」と思っていたけれど、いつの間にか好きになっていた。とりわけ好きなところを語ってみる。

「26」は、弦楽器がフォルティッシッシモ(fff)で、できる限り強くガシガシと弾き進めていく。その上を管楽器が自在に絡み合う。その響きを聴いていると、頭上では始祖鳥が羽ばたき、今にも恐竜が姿を現しそうな気配が漂う。まるで『ジュラシック・パーク』の世界に迷い込んだかのような気持ちになる。
ところが「27」では、一転して音が消える。さっきまで叫ぶだけ叫んでいた生き物たちが一斉に姿を消し、目の前には、ひんやりと静まり返った湖が広がる。そこに一羽の白鳥が静かに浮かんでいる──そんなイメージだ。
ここは、前の勢いのまま突っ込んでしまうと、テンポがとれず迷子になりがちな箇所だった。幸い、GP(本番と同じ席順)では、隣にとても上手なチェロの先輩が座ってくれることが発覚! 先輩の音をナビゲーションに、静かな湖を最後まで白鳥を泳ぎ切らせることができた(と、思う)。
【AIによる解説】チャイコフスキーは1877年、男性を愛したことで知られる自身の性的指向と、当時の社会規範との狭間で苦しむ中、望まない結婚生活がわずか数か月で破綻し、深い精神的苦悩に陥りました。その後、パトロンであったナジェージダ・フォン・メック夫人の支援を受け、静養と創作に専念できる環境の中で《交響曲第4番》を書き上げます。第1楽章には、運命に翻弄されるような不安や葛藤が色濃く刻まれています。しかし、終楽章では苦しみの中にも生きる喜びを見いだそうとする力強い音楽が響きます。この作品には、絶望の先にも人生は続いていくという、チャイコフスキーからのメッセージが込められているように感じられます。
楽しかったこと、好きだった箇所の覚書です。
今回、私は7プル裏だった。「折り返し」といって、多くの場合6プル以降はビオラの位置(客席からみたら右側)ではなくチェロの奥の方になるので、管楽器に(いつもよりは)近かった。そうなると管楽器がよく聞こえる! 木管の繊細な動きも楽しかったし、金管のガンガンした響きは「オーケストラの中で弾いている」という醍醐味が味わえた。前述したイタリアンの食事会では、演奏終わった時の管楽器の響きが脳内を何度もリフレインしてきて、「チャイ4、いい曲だった~」と呟き続けていた。

チャイコフスキー交響曲第4番は、金管の圧倒的なファンファーレから始まる。最初は管楽器の独壇場で、弦楽器は、13小節目の1音をffで入るのが最初の一音。この1音、「これから曲を弾き切ります!」と武士が刀を抜くような気持ちになる。
弦分奏で先生が、「Oは、子どもがおもちゃを欲しがる感じなんだよねぇ」とおっしゃった。「どうしても欲しい!」と切実に訴える、あの必死さだ。そこの、「ねぇ、絶対に欲しいの!」というフレーズに入る前に、気持ちを溜めるために一度、間をつくる。だからこそ、「どうしても欲しい!」という叫びが生きてくる。

指揮者の先生は、その導入で、すっとしゃがみ込むような動きをされる。その小さな合図を見逃さず、丁寧に「O」へ入っていくことが大切なのだ。

私のブログでは「弾けない私」が定番トーン。ひどい時には、「もう楽器をやめようかな」と思ったことすらある。悲壮感が漂いまくっているバージョンはコチラ。
今回の「演奏会後のスケッチ」は、自分でも驚くほどに、「定番の弾けない話」が出てこない。その変化のきっかけは、野本響子さんとの出会いだったと思う。
野本さんは長年アマチュアオーケストラでファゴットを吹いてきた方だが、ここ数年でビオラも始めたという。そして、なんと昨日はカルテットの本番だったらしい。
えっ、弦楽器を始めて数年でカルテット!?
思わず顎が外れそうになった。カルテットは、オーケストラのように周りに助けてもらえる世界ではない。1パートに一人。逃げも隠れもできない。
私はずっと、「弦楽器は子どもの頃からやっていないと上達しない」と思い込んできた。18歳で大学オーケストラに入り、ビオラを始めた私は、「永遠に第二外国語のようなものだ」が口癖だった。
大学オーケストラのパート練習では、メトロノームを相手に一人で弾かされる時間がある。独り弾きが恐怖すぎて、ホコリだらけの部室棟で独りで練習していた日々。でも、いくら練習しても思うようには弾けない。その繰り返しだった。だからなのだろうか。「弾けない」は、私の強固なアイデンティティとなっていた。
ところが、そんな私の「前提」を野本さんはいとも軽々と飛び越えているではないか!
弦楽器を始めて数年で「カルテットをやってみよう!」という心持ちに、どうしたら辿り着けるのか? その道のりについては、いつかぜひ聞いてみたい。
でも、それ以上に私に衝撃を与えたのは、「大人になってから弦楽器を始めて数年で、カルテットをやっている人がいる」という事実だった。
この事実は、私の音楽に対する初期設定を書き換えた。
私は大学オーケストラで身についた部活動の価値観のまま、思うように弾けるかどうかばかりを気にしていたのかもしれない。でも、アマチュアなのだから、そこまで「思うように弾ける」という方向にこだわらなくても良くないか?
「(思うように弾けなくても)まあ、いっか。」
そう思えるようになったら、不思議と音楽が少し自由になった。今回の「演奏会後のスケッチ」に「弾けない話」が出てこないのは、演奏がうまくいったからではない。私の音楽との付き合い方が、少し変わったからなのだと思う。

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