「多数派の視点で語らない」という授業

2021.4.20

 

昨日は、パープル夜間大学の渡辺大輔先生の講義だった。

 

授業のタイトルは、「ジェンダー/セクシャリティ形成の場

としての学級を変革する」だった。

 

渡辺先生は、学校に招かれて実際に50分の「授業」をされることもあり、

昨日は、渡辺先生の「授業」を受けさせてもらった。

 

きたぞ、きたぞ! 実践的な話。

 

1ミクロンの自慢にもなりませんが、

私、「勉強をした」という記憶が、人生で全くない!!

 

本当にないんだよね。。。記憶喪失なんだろうか?

 

そのせいか、実践論の方が頭に入りやすい。

多分、「お勉強的な知識」が、全く入らない脳なんだと思う。

 

で。

 

結論から言えば、外国人児童の本を作る際、

私が、なぜ、あそこまで辛かったのか? が、分かった。

 

 

外国人児童に関して、私は日本人(多数派側)の岸辺の奥地に

どっかり腰を下ろして、な~んにも考えていなかった。

 

「お前は、ペリー来航以前の日本人か!」ともいえるレベルで、

外国の方と暮らす人生について、想像すらしていなかったという感じ。。。

 

そんな私に、菊池先生が、なぜ、声を掛けてくれたのか? は、

今となっては激しく謎だが、(今度会ったら聞いてみるつもり)

教員人生、もとい、人生の全てともいえるエネルギーを傾けて

「外国人児童が日本で安心して暮らすこと」の教育実践に取り組まれてきた

菊池先生の、言動のひとつ、ひとつが、カルチャーショックすぎた。

 

で。

 

多数派。って、鈍感なんだと思った。

 

「そのことについて考えなくてもいい」という「特権」を与えられているから。

それが、「特権なんだ」ということを、昨日の渡辺先生の授業で教えてもらった。

 

そう気がついたのは、渡辺先生の授業を受け、その後、

「『多様な性』の『ありがちな授業案』」のスライドのコマ割りを見て、

渡辺先生の工夫している点を伺う時間があったから。

 

簡単に言えば、ありがちな授業案は

「差別されている人を、差別しないようにしましょう」的な

どこかしら、上から目線の展開なのだ。

 

これって、私が、当初、外国人児童の指導に対して持っていたイメージ

「日本で過ごしやすいように、日本語を教え、日本の生活に慣れさせることでしょ?」と、

漠然と考えていた感じに似ている。

 

菊池先生は、外国人児童の指導に関して

「多文化共生教育」と定義されている。

 

多文化共生教育とは、菊池先生の言葉を借りれば。

「多文化共生教育」とは、一人ひとりが生まれもつ多様な個性を認め、それを活かしていく教育だと考えます。それは、特定の教科で行うものではなく、全ての教育活動を通じて、様々なものの見方、考え方を認め合える場を設定する中で実現していくことが必要です。

 

菊池先生の教育実践は、平らかだった。多数派、少数派の違いはあれど、両者が同じ土俵に立っている感じ。そこに優劣や序列がない感じだった。

 

この「違い」に序列をつけない感覚は、

これから生きていく上で必須の感覚だと思うんだよね。

 

どんな人でも、必ず少数派になる場面がある。

わかりやすい例でいえば、「高齢者になる」。

これは、最も多くの人が経験する、少数派の立場だと思う。

 

「自分が高齢者になった時をイメージして、

そんな自分が過ごしやすい社会って、どんな社会かな?」と考えてみると、

少数派が生きやすい社会に必要なこと、少しは見えてくるかな???

 

【2021年4月・5月の学びシリーズ】 

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