2024.6.4
一昨年の太宰治の朗読会に引き続き、梶取さよりさんが主催されている太宰作品の朗読会に行ってきた。
出演 : 梶取さより・柳瀬麻知子・小島涼子(敬称略)
目次
今回の会場となったのは、練馬区にある光が丘美術館だ。
「四季を描く唱歌の世界のコンサート」の時に続く二度目の来訪だったのだが、展示がすべて入れ替わっていた。
光が丘美術館は、美術品のコレクターであり練馬区在住の故・鳥海源守氏が1993(平成5)年に設立した個人の美術館だそう。
前回、来訪した時は、日本画家・森田りえこさんの作品が展示されていたので、「森田さんのコレクターなんだろうな」と、思っていた。
が。
いやいや、どうして!
今回は版画家の井上員男さんの版画「平家物語」が展示されていて、展示の様変わりっぷりが、「『個人美術館の所蔵品』というレベルを超えているな~」と、驚愕した。
美術館のHPでチェックしてみたら、3か月ごとに展示替えがあるようだ。
同じ土俵で語るのも、規模が違いすぎて申し訳ないが。
私自身、友達の個展に行ったら、作品を家に連れ帰り、季節ごとに掛け替えをして、楽しみたいタイプです。
「自分が好きなアートを多くの人と分かち合いたい!」という気持ちの集大成が、光が丘美術館なんだと思うと、個人の営みとして興味深い。
美術館の玄関にお花を活けて、お客様をお迎えする。という姿勢も、共鳴しかない。
我が家の玄関も、アート + お花です。コチラ。
今回の演目は、「貨幣」と「葉桜と魔笛」、そして御伽草子の中から「瘤取り」。
3人の巧みな朗読で、あっという間に太宰作品の中に連れていってもらった訳だが、3つの太宰作品のうち、「瘤取り」の着地の仕方が最も印象に残った。
全くもって着地が予定調和じゃない(読者が望むような着地じゃない)。
冒頭のチラシより抜粋しよう。
『瘤取り』
誰もが知る昔話の太宰流リメイク。どうしてこんなことになったのか…と、人は不幸の理由を探したがるもの。
不幸な出来事が起こるのは悪いことをしたから? いいえ、「不正の事件は、一つも無かったのに、それでも不幸な人が出てしまったのである」と太宰は御伽草紙の教訓めいた因果応報をバッサリと斬る。
私は商業ベースで実用記事を書く人間だ。
商業ベース。を言い換えれば、「読者様が望むような着地とは何か?」を考えることが仕事で、実用記事というエリアでの執筆。
そんな私にとって、およそ、この文章はありえない。
予定調和でないからこそ、アートなんだと思う。
アーティストの藤原瞬さんとお話した時、「作ったものは、一度、全部壊す。土産物屋の絵みたいになっちゃうから」といった趣旨のことをおっしゃっていた。
「土産物屋の絵」って、「こんなものが欲しいですよね?」と顧客ニーズを汲み取り、小売価格から原価を割り出して赤字にならないように小さくまとまった絵ということだ。
アートは、その対極にあるものだと思う。
太宰は御伽草紙の教訓めいた因果応報をバッサリと斬る。
本当に、そうだ。バッサリと斬っている。しかも、(前回も書いたが)この作品が戦時中、防空壕の中で書かれたということにも、驚く。
太宰のイっちゃっている文章に、今なお、救われている人がたくさんいるという事実が、「太宰治とは、ナンなんだろうか・・・」という問いを私に向けて来る。答えは、全然、わからないけれど…。
「瘤取り」は、青空文庫(著作権フリーのネット図書館)で読めます。ご興味のある方は、コチラ。
朗読を聞く時は、目を瞑って聴覚だけで受信するのだが、今回の朗読を聞いて、「声は、各人に備わった才能だ」と、思った。
作家の森瑤子さんが、芸大でヴァイオリンを学ぶのを止めた理由を、「楽器の音色は、自分の声と同じ。ガラガラ声の私は、プロとして楽器を弾くことに限界を感じた」といった趣旨のことを語っていたと記憶している。
朗読の技術は、練習すればするほど上達するのだろうけれども、それとは別軸で、「声」があるような気がした。
その人にしか表現(表に現すことが)できないという意味で、声は、その人に与えられた道のようなものだと思う。
3人3様の朗読を聞きながら、それぞれの方が、それぞれの声を磨いているのだと思った。
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