海老原靖さんとお話しさせて頂いた時、
「吉祥寺に住んでいるのなら、
オンゴーイングって画廊があるよね」
と言われ、その時点で、私はそのギャラリーのことを知らなかった。
吉祥寺で「私が有名だと思っている」ギャラリーの名前をいくつかあげたら、
「え? 逆に、僕、その画廊、全部、知らない」
と、言われた。
軽く衝撃だった。いや、結構、衝撃だったかも・・。
つーか、海老原さんとの遭遇は、この夏の衝撃だったんだけれども。
●
先日、知人が掲題の西村知巳さん「写真占い」を紹介していて、
その開催場所が、オンゴーイングだったので、行ってみた。
西村さんの表現手法は、写真と散文。
オンゴーイングに私が行った時、
偶然、西村さんが在廊されていて、
少しだけお話しさせて頂いたけれど、
決して話上手という感じではなかった(おいっ!)。
むしろ、「こんなふうに話す人、会ったことはないかも」という感じ。
ご本人が、フライヤーに書いていた表現を使うならば、
「この取っ付きにくさ、
思い詰めた風貌を、私は、改善できないまま」
という感じ。
けれども、いや、だからこそ。
彼の散文には、切迫感があった。
彼の表現に触れて寝た昨晩、私は自分が漫画家になって
物語を紡ぐことから逃れられないという夢を見た。
ライターになって早々に、
「表現と真摯に向き合う苦しみ、と向き合う胆力なんぞ
私にはないなぁ」と、商業ライターになったことに1ミクロンの後悔もない。
むしろ、子育てをしながらも、今でも「書く場」を与えて頂けているのは、
早々に、「冷静な諦め」ができたから、だと思っている。
グッジョブ、私!!
けれども、私の心のどこかには、
「表現と真摯に向き合うこと」への憧れのようなものが
まだ、あるんだな~と感じた。
だから、そんな夢を見るのかもなぁ・・、などと思った朝。
●
西村知巳さんのフライヤーからの抜粋。
写真はその枠の外にあるものと、すすんで関係を持とうとする。
見る人によっても、異なる顔を示すものなのではないか。(中略)
活動を続ける中で得たこれらの所見から、
私は状況の開示に、
写真を役立てることができるのではないか、
と考え至った。
私は何物であるよりも先ず、写真を選んだ人間として、
その社会に参加しているのだった。
●
私は何物であるようりも先ず、文章を選んだ人間として、
その社会に参加しているのだった。
くらいのことを言ってみたいなぁ。(「言えない」という自覚は、ある)